秩父遊歴雑記

秩父の民俗・芸能・石仏などについての備忘録

大徳院の庚申塔について

本日は小鹿野町指定有形文化財である大徳院庚申塔について紹介します。

 

f:id:azmix:20210529021552j:image図①―奈倉山大徳院山門(2021.3.18撮影)

 

大徳院について

大徳院小鹿野町奈倉に位置する曹洞宗の寺院で、秩父氏から出た奈倉氏の菩提寺として創建されたました。そのため、山号は奈倉山といいます。奈倉氏はその後、武田侵攻の際に敗北し奈倉の地から離れてしまいますが、現在でも持仏であった13世紀頃の阿弥陀如来像が残されています(これも小鹿野町指定有形文化財)。奈倉氏については、また改めて記したいと思いますが、秩父から退いたのちは現在の埼玉県越谷市あたりに遷り接骨院・奈倉堂に名を残しています。また、春日野小学校の跡地としても知られていて山門に「春日野小学校跡」という碑が建てられていたり、町指定天然記念物の「大徳院の一本杉」が立っていたりと壮観です。

 

f:id:azmix:20210529021420j:image大徳院庚申塔(2021.3.18撮影)

 

大徳院庚申塔

さて、大徳院庚申塔について簡単に紹介してみたいと思います。小鹿野町有形文化財に指定されているこの庚申塔天保10年(1839)に奈倉耕地が施主となって建立しました。下絵の作者は秩父の彫刻家・森玄黄斎であるといわれています。奈倉の地と森玄黄斎の関係については次節に書きます。秩父地方の庚申塔は文字が刻まれた文字塔が多い傾向にあり、この像のように青面金剛様が刻されている像容の塔は珍しい。この塔は青面金剛が邪鬼を踏み潰していて、左右には童子、上部には天帝が坐すという構図になっています。

 

森玄黄斎について

森玄黄斎は旧白久村出身の根付師で、旧姓は山中といいます。生家である山中家には玄黄斎ゆかりの品が残されており、幼少期に象牙を彫ってつくった将棋の駒や書画は秩父市有形文化財に指定されています。また、他にも秩父地方には玄黄斎の作品が残されています。奈倉と玄黄斎との関係は濃く、彼が27歳のころに奈倉村(現在の小鹿野町)の森家に婿入りしたことに端を発します。玄黄斎、またその妻である悦の墓も奈倉にありますので、奈倉で長く過ごしたことがうかがえます。 

 

参考文献

小鹿野町小鹿野町文化財案内」(大徳院境内の案内板)

・日下部朝一郎 1972『秩父路の石仏―野の信仰』国書刊行会

・庚申懇話会編1975『日本石仏事典』雄山閣

・高田哲郎 2018『秩父の地名の謎101を解く―秩父が解れば日本が分かる』埼玉新聞社

 ・秩父郡文化財保護協会ほか(編集・発行)『秩父文化財